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東日本大震災の記憶

今日は3月11日。

3年前に起きた東日本大震災。

まだ記憶に新しいですが、あの日の記憶をたどりたいと思います。



私の仕事は軽自動車で荷物を運ぶ軽貨物ドライバーです。
主に急ぎの荷物を運んでおり、言ってみればバイク便の四輪版といった感じです。
あの日、あの時間も町田市の工事現場へ急ぎの荷物を運んでいました。
町田市といっても外れの方で、都内から首都高4号線~八王子IC~八王子バイパスというルートで現場に向かっていました。
八王子バイパスを降りて現場まであと1~2キロというところまで来て、ある駅の前で信号待ちをしていた時でした

車が揺れ出しました

大きく長い揺れです

テレビでは「ミヤネ屋」で、東京のスタジオから豊田アナウンサーが半分しゃがみ込みながら必死に
「身の安全を図ってください」
と連呼していたのを記憶しています。

あまりの揺れの大きさと長さに、目の前の駅ビルが崩れるんじゃないか?と思いました。
地震の揺れでこんな恐怖を感じたのは生まれて初めてでした。

なぜか前に停車していた車のドライバーが後ろを向いて私の顔をじっと見ていました。

揺れがおさまると、一瞬にしていろいろなことが頭をよぎりました。

妻は無事か?

保育園にいるはずの娘は?

茨城の木造建ての実家は崩れているのではないか?

とにかく今持っている荷物だけは届けないと身動きがとれないと思い、
現場に向け車を走らせつつ妻の携帯、会社、実家と連絡しましたが、全く繋がりません。

現場に着くまでに信号機が消えている交差点が何箇所かあり、
それぞれの車が注意しながら走行していました。

現場近くになって、届け先の担当者の携帯に連絡を入れましたが、当然繋がりません。
その現場は伝票の住所とは少し違うようで、現場が特定できませんでした。
工事中の現場に届ける際にはよくある話しで、普段は携帯で担当者に確認すれば済むことなのですが、
繋がらないとなると話しは違ってきます。
仕方が無いのでとりあえず近辺をさがすしかありません。

すると同じ会社の同僚を偶然発見、たまたま同じ現場に届けに来たとのことで、
地震の直前に届けが終了していた彼に現場を教えてもらい、なんとか荷物を届ける事が出来ました。

その同僚と地震の話しをした後、とりあえず私は妻の会社が有る大手町を目指すことにしました。

因みに彼は地震の揺れがおさまる前に自宅に電話を入れたら繋がったそうで、
すぐに金魚鉢が倒れてないかを確認したそうです。
無事倒れてなくて安心したと言っていました…人それぞれだと思いました…

そして現場を離れ国道246号で都内に向かいました。
首都高は完全に通行止めになってました。

テレビではほとんどの局が地震の報道に切り替わっていました。
はっきりした時間は記憶に有りませんが、東北に大津波警報がでて、“予想の高さが10メートル”と出た時は、
「これは酷いことになる」と背筋が凍る感覚が走りました。

まだこのころは東北の被害はほとんど報道されていなくて、
九段会館の天井が落ちたとか、お台場で煙が上がっているとか、都内の被害情報が少し流れていただけでした。

その後東北の局からの中継がつながり、少しずつ情報が入り始めてきました。
でもまだこの時間は津波の情報よりも、仙台駅の屋根が崩れたとか、地震による被害の情報が多かったと記憶しています。


国道246号を走行中、妻の会社の固定電話から私の携帯にやっと電話がつながりました。
妻は会社の同僚とタクシーに相乗りで帰ると言いましたが、
私は絶対タクシーはつかまらないと思ったので、
「俺が行くまで待ってな」と言って会社で待たせることにしました。

都心に近づくに連れ大渋滞が始まりました。

具体的にどの辺りから混み始めたのかは記憶に無いのですが、
環八を越えたあたりからはもう大渋滞だったような気がします。
とにかく大通りは動くに動けないので、ナビを駆使して裏道から裏道へ逃げまくり、
なんとか妻の会社にたどり着いたのが6時半ぐらいだったと記憶しています。

娘はおじいちゃんおばあちゃんに迎えに行ってもらって、そのまま預かってもらい、一安心しました。

しかし、妻の会社から千葉方面の自宅まで約20キロはあり、これまでの状況からすると帰宅できる時間は全く読めないと思い、
なんでもいいから食べ物を買っておこうと、コンビニに入ってはみたものの
残っていたのはガムとかお菓子類が少しだけ…
びっくりするぐらい棚から食品がなくなっていました。

もう帰宅を諦めたのか、会社員がビールとつまみを買っていました。

それから千葉方面へ新大橋通りで向かいました。

しかし、とにかく酷い渋滞。
歩道は人で溢れていて、防災頭巾を被っている人を訓練以外で初めて見ました。

普段1時間ほどの道のりを約4時間かけてやっと近所まで来ましたが、
自宅近くの裏道まで大渋滞で、
「どこからこんなに車が出てきたのだろう」
とイラつく以前に不思議に感じたのを記憶しています。

娘を義父母の家からピックアップして11時過ぎにやっと家に着きました。

自宅はマンションの4階なのですが、エレベーターが止まっていたので階段で上がり
部屋に入ると電気は付きましたが、水が止まっていました。
室内は物が倒れたりということは特になかったと記憶していますが、
結構大きな本棚がかなりズレており、大きな揺れだったんだなというのを実感しました。

その後はテレビの被災情報から目を離せなくなり、
体は疲れているのに目は冴えていて不思議な興奮状態だったのを記憶しています。

後日からの、ガソリン不足、計画停電、水不足などはこの時点ではまだ想像もできませんでした。



2011年3月11日の記憶はこれからも強く残っていくと思いますが、決して忘れてはいけない記憶でもあります。


車に引きずられた記憶


私の記憶が正しければ、実家に初めて来た車は
トヨタの”パブリカ”
私が幼稚園に上がる前ぐらいの頃だったと記憶しています。

父が知り合いから1万円で譲ってもらったという話でした。

小さな車で白っぽい色だったことは記憶してますが、
覚えているのはそれぐらいで細かい記憶はありません。

しかし、
ひとつだけ強烈な記憶があります。

ある日、エンジンがかからなくなってしまったパブリカを
皆で押しがけをすることになり、
私も大人と同じことをしたくて一緒になってパブリカを後ろから押しました。

ちょうどその日は母の弟が来ていていて運転席でハンドルを握っていました。

私は小さかったのでバンパーの
辺りを押していました。

せーので皆で押し始めると、エンジンがかかり、パブリカは走り始めました。

皆は手を離しましたが、私は動き出した車にびっくりして、
バンパーをガッチリ掴んでしまいました。

車はスピードを上げます。

母が後ろの方から大声で
「止まって!止まってー!」
とか
「手を離してー!」
と叫んでいるのが聞こえましたが、私は恐怖で固まってしまい
手を離すことができず
そのまま引きずられました。

母の弟はしばらく母の声に気付かず、走り続けました。

どのぐらい走ったか覚えていませんが、異変に気付いた母の弟がやっと車を止めました。

私はヘソの下あたりがズルむけになりました。


その後母に
「なんで手を離さないの」
という感じのことを言われたような記憶がうっすらありますが、はっきりしません。

ただただ母の大声と恐怖の記憶だけが強烈に残りました。


初めてのバイクの納車の日の記憶

久しぶりになりました。

私はかれこれ16歳で免許を取って35歳でバイク便を辞めるまで、
約20年間ほぼ毎日バイクに乗っていました。

その原点となる、始めてのバイクが納車された日の記憶は、今でも忘れられないです。



16歳になってすぐ自動二輪中型免許を取得して、
初めて買ったバイクはホンダのNS250F。中古で28万円。

ヘルメットやら諸経費やらで32万円ぐらいになり
自分でスーパーのアルバイトをして貯めた20万円と祖父から借りた12万円で購入しました。

いよいよ納車の日。

高校から帰って、夕刊配達のバイトが終る時間に合わせて
自宅に納車をお願いしていました。

納車前に事故っちゃいけないと、新聞配達をやけに慎重に終わらせた記憶があります。

俺のNS250Fをバイク屋さんが軽トラで納車してくれました。

俺のものになったNS250Fを少し眺めて早速走らせました。

なぜかおふくろが俺を見送ってました。


ノロノロと慎重に走らせ、
まず行きたくなったのはチャリンコでよく行っていたところ。

チャリンコでいつも「遠いなあ」と思っていたところに行ってみようと
小学生の頃によく釣りに行っていた少し離れた調整池へ
そこは田んぼの中の一本道を抜けた先の分譲団地の端にあり、道は広く、車はあまり走っていない場所でした。


昔チャリンコで必死に走っていた場所を
こんなに楽チンに風を切って走っている…などと優越感に浸りながら
バイクのスピードを少しずつ上げていきました。

メーターをみているともうすぐ100キロ!

と思って前を向いたら目の前に道路の縁石が迫っていて、

あっという間にブレーキをかける間も無く乗り上げて

転倒!

一瞬何が何だか分からなくなり、
とりあえず起き上がってバイクを見ると
タンクがべっコリ凹んで、フロントフォークは曲がって、
先ほど納車された俺のNS250Fはあっという間に走行不能になっていました…

やっちまった…

とうなだれていると、
通りかかった小学生の女の子に
「大丈夫ですか?」
と心配される始末

とにかくバイクは押すこともできない状態なので、
近所の家で電話を借りて
さっき納車してくれたばかりのバイク屋さんに来てもらうハメになりました…

バイク屋さんを待っている間、幼なじみのお母さんがたまたま通りかかって声をかけてくれましたが、
恥ずかしさと情けなさで

「調子に乗って転んじゃいました…」

なんてことを言ったような記憶があります。


両肘と両ひざはすり傷だらけになり、
翌日一応医者に行って遅れて学校に行くと、

親友だったイイムが

「今日は嬉しくて走りに行って来ないのかと思ったよ」

というので

「転んだ」

というと、おもいっきり大笑いされたことも記憶に残ってます。




その後NS250Fはなんとか修理して、
しばらくは道の端っこをノロノロ走ってましたが、
一年も経つと仲間とワインディングを攻めに行って膝を擦りながら走ったり、
散々転んだりしてました。

日光にツーリングに行ったり、鈴鹿までバイクの世界GPを観に行ったり、
高校を卒業するまでたくさんの思い出を残してくれました。














海水浴での記憶

今回はまた子ども時代にさかのぼりまして

小学生の頃の記憶を旅してみようと思います。



小学生の頃の記憶で強烈なものといえば…


2年生の時、夏休みに家族でいった海水浴で、

うまれて初めて


”死体”


を見ました。


海からひとりのおじさんが
何かを背負うようにして上がってきて
周りに人だかりが出来ていました。


何やら騒ぎになって私達も見に行くと


海から上がったおじさんが、
しゃがみこんで顔を手で覆っていました
その前には人形のように横たわった小学3、4年生ぐらいの男の子の死体がありました。


その男の子の顔などは記憶に無いのですが、


名札の付いた海パンを履いて、手や足の指先が水膨れして腫れあがり
ところどころ皮がむけたようになっていました

その光景はクッキリと強烈に記憶に残るとともに


初めて見た死体は、
怖いとか、気味が悪いとかということはなくて

ただただ珍しいものを見た、
という感覚と
何か人が死ぬということは普通じゃないんだな

と感じたことが強く記憶に残っています。


その後、夏休み明けの学校で
友達のこーちんの背中にぶら下がり、そのまま引っ張ってもらうという

”死体ごっこ”

が俺とこーちんの間だけでしばらく流行りました…












バイク便の記憶2

今回も、もう少しバイク便の記憶を掘り返してみようと思います。


バイク便に危険はつきものです。


私の契約していた会社は当時200人ぐらいのライダーが在籍していたと記憶していますが、
ほぼ毎日のように大なり小なり事故が起きていたように記憶しています。

私も仕事を始めて一週間後に事故に遭いました。

車線の一番左側を走っていて、客を見つけて急に幅寄せしてきたタクシーと接触してしまいました。

大事には至りませんでしたが、仕事に慣れてきたころの事故だったので
けっこう落ち込んだと記憶しています。


その後約12年間のバイク便生活で、4~5回事故に遭いましたが、
幸い大きな事故は無く、無事バイク便人生を終えたわけですが、

一緒に仕事をしていたライダーのなかには事故が原因で仕事を辞めっていったライダーが多くいました。


・渋滞中、反対車線から追い越しをかけて、対向車と正面衝突し飛ばされてお尻から落ち
骨盤を骨折して半年近く入院したライダー。

・交差点に進入したところ、信号無視してきたトラックの真横に突っ込み数か月入院したライダー。

・渋滞をすり抜け中、ドア開けをくらって指を切断したライダー。

・Uターン中の車に真横から猛スピードで突っ込み数十メートル飛んで、
顔面から落ち、顔が変わってしまったライダー。


思い出したらキリがないですが、当然亡くなったライダーも何人かいました・・・



私の直接の知り合いには仕事中の事故で亡くなったライダーはいませんでしたが、
業界内で流れてくる情報で、毎年1~2名ぐらいは亡くなったという話を
聞いていたような記憶があります。


なので、
最初はイケイケで“とにかく速く届けるんだ”という気持ちで走っていたのが、
だんだん事故のことが常に頭をよぎるようになって、
いつの間にか自己防衛能力がつくようになってくるんですね

いくら交通規則を厳守して走っていても、事故れば痛いのは自分。
けがをして何百万円もお金をもらっても、
一生治らないけがをしてしまったら元も子もない。


そう思って途中からは走っていました。


だから、バイク便の仕事を辞めることが決まって、その日が近づくにつれ、

「ここまできたら事故りたくない」

という気持ちがどんどん高まって、ついに最終日無事終わったとき


ものすごい安心感と開放感があったと記憶しています。


ちなみにバイク便を辞めた時はゴールド免許でした。



今では、あの寒くて、暑くて、危なくて、汚い(人が多かった)、バイク便は
もう二度とやろうという気持ちはないんですが、

当時からまだ現役で続けているライダーも何人かいますので、そのライダーたちの
無事を願わずにはいられません・・・



バイク便の記憶

今回はちょっと最近の記憶を旅してみます。


私は約8年前まで約12年間「バイク便」という仕事をしていました。

首都圏や大阪を中心とした関西圏の人たち以外には
なじみの少ない職業かもしれないですね。

始めたきっかけは、


「稼ぎたいから」


それだけでした。


当時ある目標のためにとにかく稼ぎたいと思っていました。

今もあるのかわかりませんが「ガテン」という求人雑誌で


“とにかく高収入”


みたいな記事を読みまくってたら

高所での電線工事や、高層ビルの窓ふきなんかと並んで求人されていたのが

「バイク便」でした。


仕事の内容は、
急ぎの荷物をバイクで運ぶだけ。


渋滞した都内の道を箱を積んだバイクですり抜けていく

当然危険をともなう仕事で、いわゆる3K

・危険
・汚い
・キツイ

といわれる仕事でした。


でも、
給料は良かったです。

というか、“完全歩合制”でやればやっただけ稼げました。


すでにバブルははじけていたので全盛期は過ぎていましたが
今よりも単価が全然高かったので

最高で月に70万以上は稼げた記憶があります。


そのぐらい稼ぐには

朝は必ず予約からスタートして(予約をもらわなければ営業所に出勤
して朝から待機)

夜は仕事がなくなるまで

当時は受注が22時30分まででしたので

「今日はもう仕事がありません」

と配車から言われるまで走ってました。


毎日7時前には家を出て、帰ってくるのは24時過ぎ

当時23時から放送していた「筑紫哲也のニュース23」という番組を
ポケットラジオで聞きながら家路について
家に着いたら、そのあとの番組「ワンダフル」を見ながら弁当を食べる
という生活でした。


月~土をそのペースで働いて祝日も出勤
休みは日曜日だけ。


睡眠は3~4時間。


常に眠気が襲ってくるので、
眠気覚ましドリンクの「モカ」は手放せませんでした。


信号待ちで寝てしまうのはしょっちゅうで

右折待ちでも寝てしまい
後ろの車のクラクションで目が覚めて
バイクごとバランスを崩して倒れて
危うく対向車にひかれそうになったこともありました・・・

(学校の授業中に居眠中、ビクンと目が覚めて筆箱とか落として
しまう、あれです)



当然危険な目にたくさん遭いましたが
私は運が良かったのか大きな事故を起こすことなく
12年間働くことができました。





当時バイク便をしていたライダーを大きく分けると、

① ただバイクが好きで、好きなバイクに乗ってお金がもらえるなんて最高!

② とにかく稼ぎたい(目標のために貯金したい、借金を返したい)

③ 空いた時間に仕事をして、時間を自由に使いたい

こんな感じでした。


当然私は②だったわけですが、①や③にも面白いやつや変な奴がたくさんいましたね。

①は完全に“バイク馬鹿”で、仕事中散々バイクに乗っているのに休みの日までツーリングに行ったり、
バイク便でお金をためて海外ツーリングに行って、
お金が無くなったら帰ってきて
またバイク便でお金をためて海外ツーリングという

休みの日はバイクに一切乗りたくない当時の俺には考えられない人たちでした。


③はいわゆるフリーターで目的のために空いた時間で仕事がしたい人たち。
役者の卵なんかが多かったですね。

劇場で公演している役者さんなんかが多くて
チケットをもらっていったこともありましたが

まったく、チンプンカンプンだった記憶があります・・・


残念ながらあの頃の人たちで、今テレビなどで活躍している人はいないようですが・・・




今となってはみないい思い出として記憶に残っています。




現在は景気の低迷と、高速大容量のインターネットの普及で
かなり落ち目なバイク便業界のようですが、

当時は、“時間をお金で買う”というバブル時代の名残が色濃く残る職業だったような気がします。

懐かしいなぁ



タグ:バイク便

記憶と思い出

この「記憶の旅」のブログをスタートして、考えたことがあります。

記憶と思い出。

違いはなんでしょうか?


私なりの解釈ですと
「記憶」に感情が加わったものが「思い出」でしょうか・・・?


一応調べてみました。

・記憶(きおく)とは、
ものごとを忘れずに覚えていること。また覚えておくこと。
1(心理学)過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと。
2(心理学)将来に必要な情報をその時まで保持すること。
3(生物学)生物に過去の影響が何らかの形で残ること。
4(コンピュータ)必要な情報を保持しておくこと。

・おもい‐で 〔おもひ‐〕 【思い出】 とは、
1 過去に自分が出会った事柄を思い出すこと。また、その事柄。「―にひたる」
2 あることを思い出すよすがになるもの。「旅の―に写真を撮る」

こんなかんじになりました・・・


さすがにコンピューターの話は置いておくとして・・・

記憶の1と思い出の1はほとんど変わらないですね

要はどちらも過去の経験、出来事を「思い出す」ってことですね。


・その経験、出来事をただ思い出すだけなら「記憶」

・それにひたれるのなら「思い出」


ただ思い出すだけの「記憶」に、それにひたれる「思い出」があれば
なお良し、ということで

このブログ「記憶の旅」をさらにつづっていきたいと思います。


大事件の記憶

幼稚園生の頃、
おそらく私の人生で初の、〈大事件〉を起こしました。


もう時効なのでここで発表していまいますが、


〈窃盗事件〉です。



当時、父親が持ち歩いていたキーケースに
ジャラジャラぶら下がった「カギ」に憧れていました。

父親が
「おーいキー取ってくれ」
と言って

母親が渡すそのカギの束を見て

「かっけー…」

と、羨望の眼差しで見ていたものでした。


でも、「カギは触るな」とキツく言われていて
触ることはできませんでした。




ある日、
どうしてもカギを欲しい気持ちが抑えられなくなり

ついに手を出してしまいました…

幼稚園の帰り道にある
ラーメン屋の前に止めてあった出前用のカブ

つけっぱなしになっていたカギを持ってきてしまいました…


その時どんな気持ちだったのかは思い出せないんですが

きっと嬉しくなってしまったんだと思います。


一度家に帰って、幼なじみのたかちゃんとおおちゃんを引き連れ
近所のつけっぱなしになってるカギを盗みまくりました。


そして、缶の宝物入れに大事にしまっておきました。


当時はまだのんびりしていたのか、しょせん田舎だったのか
車やバイクのカギをつけっぱなしにしてる人がたくさんいたんですね。



夕方になり、
おおちゃんのお母さんが、
おおちゃんと一緒に我が家に来ました。

おおちゃん家は最初にカブのカギを盗んだラーメン屋の隣で
ラーメン屋でカブのカギが無くなって出前に行けない、
と大騒ぎになったらしく


おおちゃんは私が盗んだとバラしてしまったのです。



私はカギがたくさん入った缶を差し出しました…





その後、
母親と一緒に盗んだカギを一件一件返してまわりました。

路上駐車してあった車は誰の車か分からなかったり、
カギが無くなったことに全く気付いていない家もありました。


5~6件は回ったでしょうか


たしか、いくらかのお金を包んで渡していたように記憶しています。

出前に行けなくなってしまったラーメン屋には

「多めに渡しておけ」

と父親が言っていたような記憶があります。


途中で母親の顔を見ると涙を流していました…

初めて、
母親に悲しい思いをさせたんだなと思ったのを
強烈に記憶しています。



でも、この事件のことでキツく叱られた記憶は有りません。

何日か後に、父親と手をつないで歩いてる時

「お前は悪いことなんてしないもんな」

と言われたのはしっかり記憶しているのですが…




あの時の母親の涙を見なかったら、


私の人生はもっと曲がった方向へ行っていたかもしれませんね…

好きだった女の子の記憶

幼稚園の頃好きだった女の子は

年少の時はみゆきちゃん
年長の時はケイコちゃん

なぜ好きになったかなんて理由は、さっぱり覚えてません…

幼稚園児どうしでどんな会話をしたか、なんてのも覚えてないですしね

ただひとつ覚えているのは、
ケイコちゃんが、よく私のボタンを閉めてくれていたこと。

面倒見の良い子だったんですね。

いつの時代も男の子は女の子の優しさに弱いものです。


あるとき、両親にみゆきちゃんの名前をうっかり言ってしまったため

その後親戚の前やらで

「みゆきちゃんが好きなんだよねー」とさんざん言われて

小学校に上がってまで言われ続けてしまい

心の中で「好きな子の名前は親には絶対に言わない」
と誓ったものでした…


しかし、
みゆきちゃんも、ケイコちゃんも小学校、中学校と一緒でしたが
その後一度も二人のどちらに対しても恋愛感情を持ったことはありませんでした…


今、あの頃の私と同年代の娘も「○○ちゃんが好きなのー」

と男の子の名前をよく言っていますが、

この先、その子の名前をしつこく出すと

私も嫌がられてしまいそうですね…

もらした記憶

一番古い記憶は3歳のころの記憶と書きましたが、
幼稚園の頃の記憶はところどころ覚えています。


「物心がつく」とはこのころのことを言うのでしょうか・・・?


幼稚園に通っていたころの記憶で
強く残っていることがいくつかあります。

・もらしたこと
・好きだった子
・遠足

などなど、結構残っているものです。



漏らした記憶は二回ぐらいあったような気がしますが、
はっきり覚えてるのは大きい方のこと・・・


年少だったか、年長の時だったか、はっきりしませんが

その時はおなかの調子が良くなかったのでしょう

どのタイミングだったのかも覚えていないのですが



漏らしてしまいました下痢気味のを・・・



恥ずかしくて誰にも言えず、

そのまま歩いて家に帰ってきたのを鮮明に覚えています。


歩きながら漏れたものが足を伝わってくる感覚が何とも言えなかったですね


そのまま周りにバレることなく家に着き

母や祖母が優しくしてくれたような記憶があります。


いま、娘があの頃の私と同じ年になりましたが、

外で洩らしたことは今のところないですね。


娘は私より優秀なようです・・・


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